徹底考察「プラットフォーム」すべての謎に答えます

プラットフォーム徹底考察

 シチュエーション・スリラーを期待して見るとつまらないが、考察好きには刺さる傑作映画。全てのシーンに意味がある。

 「何故食べ物を持ち続けると温度が上がるのか」「何故パンナコッタを持ち続けても温度は変わらなかったのか」「何故犬は殺されたのか」「子どもが誰なのか」「何故イモギリは200階しかないと認識していたのか」等、一度の視聴では疑問が解消されないが、何度も見ることで意味が見えてくる。

 この映画における様々な謎を明らかにするためには、一つ一つ丁寧に考察する必要がある。気になる謎の箇所だけ読んで理解ができなかった方は、どうか考察①から読んでほしい。

  • ストーリー
    5
  • 下品さ
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  • 映像
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  • 演技
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  • テンポ
    4

評価:

目次

「プラットフォーム」の概要

「プラットフォーム」公式トレーラー

あらすじ

 ゴレンは目が覚めると「48」階層にいた。部屋の真ん中に穴があいた階層が遥か下の方にまで伸びる塔のような建物の中、上の階層から順に食事が”プラットフォーム”と呼ばれる巨大な台座に乗って運ばれてくる。上からの残飯だが、ここでの食事はそこから摂るしかないのだ。同じ階層にいた、この建物のベテランの老人・トリマガシからここでのルールを聞かされる。1ヶ月後、ゴレンが目を覚ますと、そこは「171」階層で…。

Amazon.co.jp: プラットフォーム(字幕版)を観る | Prime Video

出演・監督・ジャンル等

  • 出 演 :イバン・マサゲ, アントニア・サン・フアン, エミリオ・ブアレ
  • 監 督 :ガルダー・ガステル=ウルティア
  • ジャンル:サスペンス, ホラー,ワンシチュエーション,SF
  • 上映時間:98分
  •    :スペイン
  • 公開年 :2019年

以下「プラットフォーム」の考察です。私なりの解釈ですので参考程度に。

「プラットフォーム」考察①「穴」について

「穴」はキリスト教世界のメタファー

 「穴」は世界の縮図で、降りてくる食べ物は富、上層階は富裕民で下層階は貧困民である。

 富裕民が富を独占して貧困民に対し「同じ人間」とは思えない下劣な行為をする。貧困民は上階にいる富裕民には何もできず貧困民同士で争い、少ない富を奪い合う。富める者は富み、貧しい者は貧しい者同士で争う、そんな世界を表現しているのだろう。

1か月に1回の配置換えは「貧民の成り上がり」と「富民の没落」を意味する

 1ヶ月に1回、「穴」の人々は各階へランダムに移動する。これは富裕民の没落や貧困民の成り上がりを示していると思われる。そして「穴」の下層から上層へ移動しても、元下層民である上層民は、現下層民に対して配慮はしない。「下の者は下だ」と。数日前の自分と同じ立場であるのにも関わらず、そんなことはお構いなしだ。

 これは現実世界でも同じことが起きている。貧困層から成り上がった者は、自分と同じ立場で苦しむ貧困層を「努力不足」と断罪する傾向がある。自分の成功には運や環境等が多分に含まれているだろうに、そこには気づかず断罪する傲慢さは、まさにこの映画で飯を貪り下層へ小便垂れる上層民そのものである。

「努力のおかげ」・「自業自得」はキリスト教の「恵みの教え」と反する

 この成り上がった者が持つ「自分の努力のおかげ」や、没落した者への「自業自得(報い)」という考え方は、キリスト教の「恵み」の教えに反するものだ。

 日本人には少しピンと来ない考えだが、キリスト教では「恵みは(キリスト教徒であれば)神から無条件でもらえる」ものであり、本人の努力等の行いによって得られるものではない。

 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

エペソ人への手紙

 しかし、この映画において「恵み」である食べ物を享受できるのは上層階・中層階の者のみで、下層階の者は「恵み」は得られない。これはどういうことを表現しているかというと、「キリスト教の教えでは、全ての人が「恵み」を享受できるはずなのに、現実はそうでない」という疑問に対する答えだ。

 その答えとは、「キリスト教の教えは間違っていない。全ての人に「恵み」が行き渡るように与えられているが、一部の人間(上・中層階の人々)が不当に「恵み」を奪い、その結果「恵み」がもたらされない人々がいるのだ。」というものだ。

「恵み」と「最後の審判」という矛盾するシステムを内包するキリスト教

 しかし、現実問題として上層階の人々は、簡単に「恵み」を奪うことができるわけで、全員が全員「理想的な共産主義者」でもなければ、全ての人に「恵み」が行き渡ることはない。

 もう少し考察を進めると、これはキリスト教の「恵みの教え」は、「全員が理想的な共産主義者」、言い換えれば「全員が善人」であることが前提のシステムで、そうでなければ全員に「恵み」が享受できないシステムと言える。

 しかしキリスト教では、終末の日に人間全員を善人か悪人かを審判して、天国行と地獄行を決める思想「最後の審判」というものがある。この裁判が必要とされるということは、悪人がいる前提のシステムなのだ。

 全員が善人でなければ成り立たない「恵み」というシステムと、人間には悪人がいる前提に成り立っている「最後の審判」というシステム。この二つを正としているのは矛盾であり、キリスト教の欠陥と言える。

 つまり「穴」は、そうした「キリスト教の欠陥」が「世界の凄惨たる現状」を引き起こしているという「キリスト教への痛烈な批判」ではないだろうか。

全員が「善人」だとしても「恵み」のシステムは成り立たない

 さらにこの映画の恐ろしいところは、仮に全員がイモギリのような善人で食料を少しずつしか食べなくても、全員に食料が行き渡らない点だ。

 イモギリは「穴」が200階までしかないと認識していた。イモギリは元管理側であることから、管理側は200階までしかないと思っているということだ。これはつまり、管理側は200階×2人の400人分の食料しか用意しておらず、平等に分け与えたとしても毎月誰かは餓死するという恐ろしい仕組みとなっている。

 これは、現実世界が抱える「人口増加に伴う資源の枯渇問題」を表している。

紀元前8000年から2011年までの世界人口の推移グラフ
70億人目前、人類はいつからどのように増加してきたのか – GIGAZINE

 キリスト教が成り立った1世紀頃、世界人口は3億人程度とされており、キリスト教の「恵み」の考え方でも、世界の資源を十分に分け合うことが可能だった。しかし2011年で世界人口は70億、2022年現在は79億と1世紀頃と比較すると約26倍だ。(出典:UNFPA Tokyo | 世界人口白書2022

 現代社会では、この映画のように、どうやっても「恵み」が行き渡らない人々が生起し、そして飢餓に苦しんでいる。

「プラットフォーム」考察②「管理者」について

 「穴」を管理する者達「管理者」とは何者なのか。

 料理を統括する老人は「神」で、料理人や受付は「天使」だろう。「神」が意図・指示したことを「天使」が人間へ伝言する。これは老人が、食べ物や料理人を徹底的に監督している様子から見て取れる。

 物語中盤で「パンナコッタ」に髪の毛がついていて老人が料理人に激怒するシーンがあるが、これは文字通り、髪の毛1本分すらも違わない神の完璧なメッセージを伝えているという意味だろう。

後ほど重要になってくるので「パンナコッタ=神からの伝言」ということを覚えておいてほしい。

神に背いた者には災い(温度変化)をもたらす

 キリスト教では、富を持つことは悪とする考えがある。

 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

マタイによる福音書 6 : 聖書日本語 – 新約聖書 (wordproject.org)

 この映画において、富とは食べ物である。リンゴ等の食べ物を部屋に保管する行為は、「富を貯蓄する行い」であり、即ち「神に背くこと」と解釈できる。それ故に、食べ物を部屋に保管すると災いが訪れるのだ。

パンナコッタを部屋に保管しても温度が変わらなかった訳は?

 「食べ物の保管=富の貯蓄=神への背信行為」という解釈を前提にすると、物語終盤で「パンナコッタ」を部屋に置いていても温度が変わらなかったのは、ゴレンやバハマトが「後で自分が食べるため(富を貯蓄する行い)」ではなく、「管理者に送り届ける伝言」あるいは「他者に食べてもらう物」として保有したため、神に背いたことにならなかったのではと推測できる。 

「穴」のシステムがオーバーテクノロジーな理由は?

 「穴」を作ったのが「神」であると考えると、「穴」の「食事台」が完全に宙に浮いていたり、食べ物を確保しただけでそれを容易に察知し、自動的に部屋の温度が人間を丸焦げにするほどに変化する等、明らかに人智を超えた施設であることも納得ができる。

 あれらは神のなせる業であることを表現しているのだ。

「プラットフォーム」考察③各登場人物について

 この映画の主要な登場人物たちは、それぞれキリスト教やエジプト神話がモデルだと思われる。

ゴレンは「イエス・キリスト」

 ゴレンは「イエス・キリスト」がモデルだと思われる。ゴレンと「イエス・キリスト」の類似点は以下の通り。

  1. 白人で癖毛やひげ等、見た目が似ている
  2. ベッドに磔にされて殺されかける(イエス・キリストは磔にされて殺される)
  3. 殺されかけた後、ミハルに抱きかかえられる幻覚を見る(イエス・キリストは処刑された後、十字架から降ろされ聖母マリアに抱きかかえられる)
  4. 空腹時、トリマガシの幻覚から誘惑される(イエス・キリストは40日間断食した際、悪魔から誘惑を受けた)
  5. 33階で復活する(イエス・キリストは殺された時33歳とされ、処刑の3日後復活する)
  6. イモギリの言うことを聞かない下の階の者に「言うこと聞かないとクソぶっかけるぞ!」と脅した(イエス・キリストは「異教徒は地獄行き」、「教えに耳を傾けない町は滅びる」等、恫喝まがいな教えで宣教していた)

④「イエス・キリストが悪魔から誘惑を受けた」話は、「荒野の誘惑」から来ている。

 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の試みを受けた。マルコによる福音書(1:12,13)、マタイによる福音書(4:1-11)、ルカによる福音書(4:1-13)の福音書に記述がある。

荒野の誘惑 – Wikipedia

⑥「イエス・キリストの恫喝まがいな教え」の根拠は、以下の通り。

 あなたがたを受け入れない町や家があったら、そこを立ち去る時、足のちりを払い落としなさい。よく言っておきますが、さばきの日には、あの邪悪なソドムとゴモラの町(悪行のため、神に滅ぼされた町)のほうが、その町よりまだ罰が軽いのです。

マタイの福音書 10 | JCB 聖書 | YouVersion (bible.com)

 このように、ゴレンは様々なシーンで「イエス・キリスト」との類似点があり、「イエス・キリスト」がモデルと言っていいだろう。

トリマガシは「信仰心のない人間」であり「悪魔」

 トリマガシのキャラクターモデルは、一言でいえば「信仰心のない人間」だ。自分が悪事に手を染めるのは環境や上層階の人のせいで、そこに自身の信念や神への信仰はない。思考停止で流されるタイプの人間だ。

 ただ彼は良心が欠如した悪人ではない。ゴレンの肉を剥ぐ際は、痛みに叫ぶゴレンを見て、苦しそうな顔を浮かべる程度の良心は持っている。

 また、死後は幻覚となってゴレンを誘惑する。これは「イエス」を誘惑する悪魔がモデルだろう。

ミハルは「聖母マリア」

ミケランジェロのピエタ 死んだイエスを抱きかかえる聖母マリア
ピエタ (ミケランジェロ) – Wikipedia

 先ほどゴレンの箇所で記述したが、ミハルは「聖母マリア」がモデルと思われる。

 存在するはずのない「息子」を探し続けるミハルの行動は、「聖母マリア」が処女懐胎(通常ではありえない妊娠=ありえない息子)したことと関連付けられる。

 ベッドに磔にされていたゴレンを開放した後、抱きかかえる場面(ゴレンの妄想と思われるシーン)は、聖母マリアの有名な芸術作品「ピエタ」(十字架に磔にされたイエスを降ろし、抱きかかえるマリアを描いた作品)をイメージしていると思われる。

 ミハルは、ゴレンのような成人男性の息子を持つ母としてはあまりに若すぎるが、これは「ピエタ」の「聖母マリア」も同様で、若い女性として描かれている。「聖母マリア」が若く表現されている理由は諸説あるが、いずれにせよ「磔にされて殺されかけたゴレンをミハルが抱きかかえるシーン」はこの「ピエタ」を暗喩するものだと考えられる。

イモギリは「堕天使」

 元々管理側として「穴」の受付をしていたイモギリは、「穴」で起きている凄惨な現状を憂い、自らの意志で「穴」に入った。これは「神」の行いや教えに疑問を持ち、自由意志で堕落し人間と化した堕天使のメタファーと言えるだろう。

イモギリは異教の天使

 また、イモギリは犬であるラムセス2世を大事にしていたことから、異教のものを崇拝する天使として考えられる。(犬が異教徒の象徴であることは後述する。)

イモギリが幻覚として現れた理由は?

 そしてイモギリは、死後トリマガシと共に幻覚となってゴレンを誘惑する。これは、イエス・キリストを誘惑する悪魔のメタファーであり、キリスト教では「悪魔=堕落した天使」とされるため、イモギリが堕天使であることを裏付けている。

イモギリが自殺した理由は?

 イモギリが自殺したのはラムセス2世が殺されたことも影響しているが、最終的なきっかけは「穴」が200層よりも深いことに気づいたためだと思われる。

 200層までなら、イモギリ(あるいは管理者側)が考えるように全員が善人であれば生きていける世界だったが、200層よりも遥か下まであることを知り、食料が全員に行き渡らない、必ず誰かが死ぬ残酷な世界であることを知って絶望して自殺したと思われる。

犬ラムセス2世は「ホルス神」

ホルス神
ホルス – Wikipedia

 まずラムセス2世という名前は、実在したエジプト新王国第19王朝のファラオと同じ名である。そしてファラオは「生けるホルス」の称号を持つ。(出典:ホルスとは – コトバンク (kotobank.jp)

 つまり、イモギリが持ち込んだ犬、ラムセス2世は「ホルス神」のメタファーと言える。

 また、聖書において犬は「神聖なものを理解できない者」、「神を冒涜する者」として扱われている。

 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

マタイによる福音書第7章6節

 この前提で考えると、ラムセス2世がミハルに殺されたのは、キリスト教から見たら偽りの神であり、かつキリスト教の教えを理解できない者、つまり異教の者であったからと思われる。

バハラトは「聖ペテロ」

鍵を持つ聖ペテロ
天使聖人 | 12使徒 聖ペテロ (art-bible.net)

 バハラトはイエスの弟子である「聖ペテロ」がモデルだと思われる。根拠は以下の通り。

  1. バハラトは最上階へ行くためのロープを所持(聖ペテロは天国への鍵を持つ)
  2. バハラトはゴレンと共に、食料を下の階の人々に分け与えるよう指示した(聖ペテロはイエスの弟子で、ともに宣教した)
  3. バハラトは日本刀を奪い、ゴレンを守った(聖ペテロは剣を使い、イエスを守ろうとした)

 バハラトのモデルが天国への鍵を持つ「聖ペテロ」だからこそ、最後のシーンで子どもが最上階へ無事に届いただろうということを暗示していると思われる。

「賢い人」は「洗礼者ヨハネ」

 ゴレンとバハラトが下層へ降りた際、彼らに「手つかずのバンナコッタを0階に届けよ」と説得した老人(ここでは「賢い人」とする)は、「洗礼者ヨハネ」がモデルと思われる。「洗礼者ヨハネ」は、「イエス・キリスト」を洗礼した人物であり、「イエスの先駆者」であり「道を準備する者」として扱われる。

 「賢い人」は、ゴレン達の行いを評価しつつも、その方法については苦言を呈した。そして、ゴレン達に「手つかずのパンナコッタを届ける」という方法を提示した。これは、「洗礼者ヨハネ」の「道(方法)を準備する者」としての側面を暗喩していると思われる。

 また、バハラトと「賢い人」は知人であり、そのやり取りから師弟関係にあったように思われる。これは「聖ペテロ」が「洗礼者ヨハネ」の元弟子である関係性と類似している。

子どもは「ラムセス2世(犬)の生まれ変わり」

 子どもの正体はいったい何なのか。それは犬、ラムセス2世の生まれ変わりである。

犬の生まれ変わりってどういうこっちゃ!?

 いきなりこんなことを言われても「意味不明!」となると思う。これに関する根拠を示していきたい。

根拠①劇中で「ラムセス2世=伝言」「あの子=伝言」と明言している

 333階についたゴレンが、トリマガシやバハラトの幻覚と話すシーンを思い出してほしい。

ドン・キホーテに手を伸ばすゴレン
「罪多き偉人は罪人でしかなく 寛大でない富者は貧者だ」

ドン・キホーテを開きながら朗読するゴレン
「富は持っているより使うことで幸せになるが 気まぐれではなく上手に使う必要がある」

ゴレン「何の用だ」

穴に腰掛けるトリマガシが画面に映る
トリマガシ「聞くのが好きなんだ」「”上手に使えば幸せになれる”」「第6層の恵みをまき散らすとは大胆だな」

ゴレン「まき散らしては…」
トリマガシ「で、どうする?」「黒人を食うか?」
ゴレン「子供でもいいだろ」

トリマガシ「その子に何ができるか気づかないか?」
トリマガシの顔がフェードアウトし、イモギリの顔がフェードインする。

イモギリ「ラムセス2世は伝言だ」「ラムセス…」「ラムセス…」「ラムセス…」
ポカンとした顔で聞くゴレン

食事台から降りてきたミハルが包丁で子どもの方向を指す

バハラトがゴレンを起こす「起きろ」

バハラト「あの子は伝言だ」「伝言になる」
子どものほうを見ながら、ゴレン「彼女が…」

幻覚から覚め、バハラトが死んでいるのを確認するゴレン

 この幻覚シーンで明らかに浮いているのは「ラムセス2世」だ。ゴレンやトリマガシは「子ども」について話をしていたのに、突然「ラムセス2世」というキーワードが出てくる。ここで「ラムセス2世」の話をするのは余りにも不自然であり、何かしら「ラムセス2世」に意味があるシーンと考えるべきだ。

 また、ラムセス2世の話をしているときに、ミハルが包丁で子どもの方向を指すシーンも意味深だ。これも意味があるシーンとして考えると、ラムセス2世と子どもに何らかの関連があると考えることができる。

 そしてこれらの言葉をストレートに受け取ると以下の通りになる。

 「ラムセス2世は伝言」、「あの子は伝言」、つまり「ラムセス2世=伝言=あの子」なのである。

根拠②ラムセス2世が死んだ場所と子どもがいた場所は、どちらもベッドの下

 ラムセス2世は33階にてミハルに殺される。この時、元々ベッドの上にいたラムセス2世だが、死体はベッドの下にあった。そして子どもがいた場所はベッドの下である。ラムセス2世はベッドの下で殺され、子どもはベッドの下で隠れていた。

 これは子どもがベッドの下で復活、つまりラムセス2世が生まれ変わったということを暗喩しているのではないか。

根拠③ミハルが抱きかかえるシーンが入る

 ゴレンとバハラトが最下層へと降りる際、ミハルが殺された後、「イモギリの顔」と「ミハルが誰かを抱きかかえるシーン」が入る。ミハルに関する考察部分で記述したが、この「ミハルが抱きかかえるシーン」は聖母マリアが死んだイエスを抱きかかえる「ピエタ」をモチーフにしていると思われる。キリスト教においては、この「ピエタ」の3日後、「イエス・キリスト」は復活する。

 つまり「ミハルが誰かを抱きかかえるシーン」をあえて入れた理由は、誰かが「イエス・キリスト」やゴレンのように「復活」したことを暗喩していると考えられる。

 それは誰なのか。ここで「ミハルが抱きかかえるシーン」の直前に「イモギリの顔」が映ったことを思い出してほしい。このことからイモギリ又はイモギリと関係性の深いラムセス2世の可能性が浮上する。

つまり、このシーンは、ラムセス2世が殺された後「復活」したことを暗喩しているのではないか、という仮説だ。

根拠④ホルス神はイエス・キリストのように十字架に掛けられ、3日後復活した

 この仮説を支える要素として、キリスト教とエジプト神話との類似点がある。「イエス・キリスト」はエジプト神話の「ホルス神」と類似点が多く、「イエス・キリスト」と「ホルス神」は同一視されることがある。類似点は多数あるが、例えば処女懐胎で生まれ、十字架にかけられ、埋められた3日後に復活する点が挙げられる。

 ラムセス2世が「ホルス神」のメタファーであれば、殺された後、復活してもおかしくはない。

 また、「聖母マリア」は、エジプト神話に登場するホルス神の母「イシス」が原型とされ、「イシス」は「ホルス神」を処女懐胎したとされている。(出典:イシス – Wikipedia

 このように「イエス・キリスト=ホルス神」、「聖母マリア=イシス」と考える説がある。

 そして、それらの説を前提とすると、1回目の抱きかかえるシーンは、「聖母マリア」のメタファーであるミハルが「イエス・キリスト」のメタファーであるゴレンを抱きかかえるシーンとして捉えることができ、2回目の抱きかかえるシーンは、「イシス」が「ホルス神」を抱きかかえるシーンと捉えることが可能である。

根拠⑤ホルス神は幼児「ハルポクラテス」として表現されることがある

 また、ホルス神は、ギリシア神話においては沈黙の神「ハルポクラテス」と呼ばれ、その姿は子どもである。(出典:ハルポクラテス – Wikipedia

 そして「ハルポクラテス」は生まれつき足が不自由であるという。

 本作の子どもの特徴を思い出してほしい。

  1. 一切喋らない(「ハルポクラテス」は沈黙の神)
  2. ほとんど伏せていて、歩くシーンはない。唯一立っているシーンも、ゴレンの手に掴まりながら足が震えている描写あり(「ハルポクラテス」は足が不自由)

 パンナコッタを食べる時ですら、寝ころんでいたのだ。足が不自由である可能性は高いだろう。このことから、子どもは「ハルポクラテス」をモデルとしている可能性が高い。そして「ハルポクラテス」は「子ども姿のホルス神」である。

根拠⑥子どもがいるはずのない「穴」に子どもが存在していた

 イモギリ曰く「『穴』は厳格に管理されており、16歳以下の子どもはいない」と。しかし本作では何故か子どもが存在していた。これは子どもが、何らかの超常現象で発生したことを裏付けるものだ。

 ミハルが「穴」で妊娠して出産した可能性は無くもないが、あの子どもは5歳ぐらいの年齢であり、とてもじゃないがその年齢まで生きていけるとは思えない。

 勿論、ゴレンの幻覚である可能性はあるが、幻覚にしては「パンナコッタ」を食べたり、バハラトも認識していたりと、納得できない部分が多い。

 やはり、何らかの超常現象で発生した存在と考える方が自然だ。

 

 

 以上の根拠から、子どもは「ホルス神」のメタファーであるラムセス2世の生まれ変わりであると考えることができる。

「プラットフォーム」考察④ストーリーについて

 キリスト教やエジプト教に関するメタファーが散りばめられた本作だが、ではこの物語は何を表現したいのだろうか。私は以下のように解釈した。

 それは、「従来のキリスト教の教えでは、現代社会には対応できません。神様、どうか気づいて」というメッセージを、人間が神へ送る物語だ。

物語序・中盤:現代社会では、従来の神の教えでは対応できない様を表現

 物語序・中盤においては、キリスト教の教えである「恵み」のシステムでは、現代社会では対応しきれないことを描写している。

 食料は上層階の人々により搾取され、下層には届かない。そればかりか、全員が善人で平等に分けたとしても、食料は200階分までしか用意されておらず、それ以上は餓死する。

 イエスが教えを説いた紀元1世紀頃であれば、成立したかもしれない「恵み」のシステムは、現代社会においては決して成り立たない。

 そうした現代社会が直面している問題に、神は気づかない。これは神が人間に無関心なわけではない。髪の毛1本でも食料に付いていたら激怒する様から、とても厳格に、人間へ「恵み」を与えていることが伺える。

 ただ神からの「恵み」は一方通行であって、人間が神へ現状を伝える術がなく、それ故に神は気づけないのだ。

物語終盤:「恵み」を受け取った異教の神が、キリスト教の神へと届けられた

 物語終盤では、いるはずのない子どもが存在しており、その子を管理者側へ届けて物語が終わる。管理者側としては存在するはずのない子どもが届けられることで、管理者が想定していない事態が「穴」で起きていることを伝えたのだ。これは、「神が想定していなかった事態が『現代社会』で起きている」という人間からの伝言だと言える。

 さらに、その子どもは「ハルポクラテス」、つまり異教の神である。その子が「パンナコッタ」を食べること、それはつまり、異教の神が「恵み」を受け取ることを意味する。

 「パンナコッタ」は神からの「恵み」であり「伝言」だ。言い換えるなら、「パンナコッタ」は従来のキリスト教の教えそのものである。異教の神のメタファーである子どもが、キリスト教の神の伝言である「パンナコッタ」を食べ、0階の神の下へと届けられる。

 キリスト教では、異教徒は地獄行であり、異教の神は悪魔として表現される。しかしこの映画の最後においては、その異教の神である子どもを神の下へ届ける。

 これは「異教徒=悪とする考えはもう成り立たない、異教徒も「恵み」を享受し、救われるべきだ」というメッセージではないだろうか。

 そして、依然と変わらず異教徒=悪とし、「恵み」をもたらさない神に気づいてほしい。そうしたメッセージを送ることで物語は終わる。メッセージを受け取った神や天使が、どういった反応をするかはこの映画において描かれていない。

 1回目にこの映画を見終わったときは、「ここで終わり!?」と感じたが、この映画の表現したいことを考えたら、「メッセージが届いた」ところで終わるのが相応しいだろう。

 「我々人類は異教徒とも手を取り合い、神へメッセージを送るべきだ(言い換えるならば、新たな宗教観・生き方を模索すべきだ)」ということが主題であること、そして我々人類には神のお考えは理解できないものなのだから、神の対応を描いてしまうのはナンセンスだ。

「プラットフォーム」考察⑤なぜ「シチュエーション・スリラー」という形態なのか

 こんなにも宗教色が濃く、メッセージ性が強い映画であるのにも関わらず、何故「シチュエーション・スリラー」という、エンターテイメント性の強い手法を選んだのか。

 これは、我々日本人のような無宗教者や異教徒である人々をターゲットにしたからではないか。私は宗教に明るくないが、恐らくこういった「キリスト教の教えを現代社会に適用させる困難さ・歪み」に関する議論は、キリスト教内では散々されていると思われる。そうした議論やテーマを異教徒向けにパッケージした結果、「シチュエーション・スリラー」という形式になったのではないだろうか。

つまりこの映画は、キリスト教をテーマにしながらも、対象者は異教徒向けという作品なのである。

「プラットフォーム」感想①シチュエーション・スリラーとしてはイマイチ

 あらすじやトレーラーを見ると「CUBE」のような「目覚めたら謎の施設にいて、謎を解き明かして脱出する話」のように見えるが、実際は違う。この映画はシチュエーション・スリラーの皮をかぶったメタファー映画である。そのため、シチュエーション・スリラーの肝である「脱出に至るカタルシス」は全然ダメである。

 なんのために「穴」という施設を作ったのか、「認定証」とは何なのか、何故こんな非効率的なシステムなのか等、「穴」の謎は明かされず、そして誰一人「穴」から脱出することなく映画は終わってしまう。シチュエーション・スリラーに求められる「システムの謎を解き、脱出するために足掻くカタルシス」はない。

 そのため、「CUBE」のようなシチュエーション・スリラーを期待して見るとがっかりするだろう。ただ、この映画はシチュエーション・スリラーではなく「宗教映画」であり、そのフィルターを通して視聴者が解釈すれば「穴」の謎は説明がつくものになっている。

「プラットフォーム」感想②とにかく下品な描写が多くてキツイ

 この映画は終始下品でグロテスクな表現が多い。降りてくる食べ物は基本残飯だし、その残飯の食べ方も不快感を覚える。

 その他にも人肉・蛆虫を食べるシーン、小便を食事に垂らしたり、人糞を顔にぶっかける等様々だ。

 特に驚いたのは犬が殺されるシーンで飛び散った内臓が画面に映っていたこと。愛護動物が惨殺されるシーンを映画で見ることになるとは思わなかったので、中々ショッキングな場面だった。

 この映画において「下品」や「グロテスク」は必要な描写ではあるが、耐性がない人は見ないほうがいいだろう。

最後に

  • ストーリー
    5
  • 下品さ
    5
  • 映像
    4
  • 演技
    4
  • テンポ
    4

評価:

 シチュエーション・スリラーものとして見たため、最初は低評価だった。しかし2回、3回と見ていくうちにこの映画の完成度、表現しようとしたことに気づき、とても感動した。

 久しぶりにいい映画に出会えたと思う。1回見て合わなかった人は、この記事を読みながらもう1回だけ見てほしい。新たな気づきがあるはずだ。

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コメント

コメント一覧 (24件)

  • プラットフォームについての考察を探していましたが、ここが一番わかりやすく納得の行く記事でした。素晴らしいです。
    考察お疲れ様ですと同時に、ありがとうございます。
    これからも応援しております。

    • 読んでいただきありがとうございます。
      その様に言っていただきとても嬉しいです!
      これからもよろしくお願いします。

  • 理解できない妻の為に全て音読しました!笑
    アゴが外れそうになりましたが、
    めちゃくちゃ凄い考察でした!

    認定証が気になりますが、腑に落ちました!

    • こんなに長く、読みづらい文章を音読していただき恐縮です。とても嬉しいです!

      認定証についてご指摘いただきありがとうございます。
      記載漏れしていましたので追記しておきます。

      私の解釈では、「認定証」とは、最後の審判において「永遠の生命を与えられる者が得るモノ」と思っています。
      キリスト教の最後の審判では、異教徒や犯罪者、正しくキリスト教を信仰していない者は、地獄に堕ち、正しく生きたキリスト教徒は永遠の命を得るとされています。つまり、「現世で清く正しいキリスト教徒として全うして、永遠の生命を与えられる」こと、いわば天国への通行手形を「認定証」として表現しているのだと思います。

    • ご指摘ありがとうございます。イシスがマリアの原型と書いたつもりが逆に書いていました。本文を修正致しました。
      修正前:また、「聖母マリア」は、エジプト神話に登場するホルス神の母「イシス」原型とされ、
      修正後:また、「聖母マリア」は、エジプト神話に登場するホルス神の母「イシス」原型とされ、

  • 「恵みの教え」とは、「教え」とあるように罪深い人間に向けた訓示(説教)ではないでしょうか?
    つまり、これは悪人がいる前提の教えで、罪を犯さずとも神の賜物を受け取れるのだから
    わざわざ罪を重ねる必要が無いことを説いた内容だと思います。
    そもそもキリスト教では、人間は生まれながらに原罪を背負っているとされているので
    悪人がいる前提の「最後の審判」と、なんら矛盾しないのではないでしょうか?

    • コメントありがとうございます。
      とても興味深い内容でしたので、しばらく考えを整理していました。
      私の考察としては以下の通りです。

      仰る通り、「恵みの教え」は罪深い人間(悪人)に向けた教えだと思います。
      「恵み」について説くことや、最後の審判が存在するということは、「悪人がいる前提」であるのは間違いありません。にも関わらず「恵みの教え」は、「恵みを不当に強奪する悪人が一人でもいたら成立しない事実上実現不可能な理論」であるという時点で、「恵み」という概念、そしてそれを教義としているキリスト教は矛盾しているのではないか?
      つまり、【「恵みの教え」では、罪を犯さなくても「恵み」を得られるというが、現実では罪を犯した者が「恵み」を得て、罪を犯さない人々に「恵み」が行き渡っていない。「恵みの教え」と現実が乖離しているし、それを防ぐ手段(布教)も機能していない。】ということが私(あるいはプラットフォームという映画)が指摘したい点になります。

      • 丁寧な返信ありがとうございます。

        確かに現代社会において、「現実と剥離した聖書の教え」はご指摘の通りです。
        教義を共産主義と紐づける考察も、大方その通りだと思います。
        敢えて補足するなら、それらの事実は「資本主義が性善説に因って成り立っている」ことと、
        「(聖書に基づく)共産主義が性悪説に則っている」こと、この二つと決して無関係ではありません。

        資本主義=自由経済を基本とし、個々人の判断を尊重(ヒトは信用に値する)→性善説
        共産主義=管理社会を基本とし、個々人の判断を軽視(ヒトは信用に値しない)→性悪説

        現実世界では資本主義が大勢を占めている以上、
        対する性悪説、つまり聖書の教えや共産主義と相容れなくて当然でしょう。

        聖書と「資本主義社会における現実」との剥離に関して、基本的に異論はありません。
        但しそれは、「聖書の記述を絶対とする原理主義者に限って」の話です。
        もう少し突っ込んだ話をすると、
        キリスト教自体、成立当初の統一された教義解釈に則っている訳ではありません。
        おそらく最もメジャーなカトリック派をイメージして考察、言及をされていると思われますが、
        同派においてさえ、「恵みの教え」に関する解釈は
        「資本主義を否定する(個人の努力を否定する)ものでは無い」
        との見解が主流となりつつあるのです。
        原理主義的な解釈は、近現代においては一般的とは言い難く、
        「ファンダメンタリスト」や「エバンジェリカル」などで僅かに認められる程度のようです。
        もし本作の主旨がキリスト教に対する批判にあるのなら、
        普遍的な真理であるはずの教義が、時代に合わせて変遷する様を皮肉ったものなのかもしれません。

        自分がコメントで指摘したかったのは、

        [2-4]全員が善人でなければ成り立たない「恵み」というシステムと、
        人間には悪人がいる前提に成り立っている「最後の審判」というシステム。
        この二つを正としているのは矛盾であり、キリスト教の欠陥と言える。

        という主張部分に対する反論です。
        ざっくり言うと、キリスト教は「原罪」という概念を基本とした性悪説に基づいた宗教です。
        「性悪」だからこそ、ヒトには教えや導きが必要だという考えなのでしょう。
        そんなキリスト教観に照らせば「全員が善人を前提とした教え」は有り得ない事が分かります。
        つまり「恵みの教え」とは、
        「全員が善人でなければ成り立たないシステム」を「正」として提示したものではなく、
        人間には悪人がいる前提で成り立っている教えを提示することにより、
        キリスト教の基本概念である「性悪説」を証明するものとして解釈するのが自然ではないでしょうか。
        「最後の審判」を必要とするのも、「性悪説」に基づく教義の一環に他ならないといえるでしょう。

        • 文書フォーマットをミスったのか、改行が滅茶苦茶に…。
          読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。

          参考文献を書き忘れていたので追記します。

          Dunn, J. D. G. (2009). The Theology of Paul the Apostle. Eerdmans.
          Stendahl, K. (1963). Paul among Jews and Gentiles and Other Essays. Fortress Press.
          Wright, N. T. (2013). Paul and the Faithfulness of God. Fortress Press.

          BIBLO toool box 恵みの賜物
          フィンランド語原版執筆者:
          ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
          日本語版翻訳および編集責任者:
          高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

  • ご返信ありがとうございます。
    キリスト教の「恵みの教え」に関する見解等、とても勉強になりました。
    ご紹介いただいた参考文献を未読の上での返答で申し訳ございませんが、私の見解は以下の通りです。

    「キリスト教は『性悪説』に基づいた宗教」であること、「そんなキリスト教観に照らせば『全員が善人を前提とした教え』は有り得ない事」ということは、私もスーさんと同じ解釈です。

    「恵みの教え」について、私が引っ掛かっている部分としては、

    「(悪人に対して)罪を犯さずとも神の賜物を受け取れるのだから、わざわざ罪を重ねる必要が無いことを説いた」とありますが、今まで悪事を犯して他人の分も「恵み」を横取りしていた悪人からしたら、現実は「今まで通りの『恵み』を享受するためには、悪人である必要がある。(映画で言えば、上層階の人間が、欲を満たすため必要以上の食料を食べる様)」ものであり、また仮に悪人が自省して自分の分の「恵み」だけで満足しようとしても、自分以外の悪人が「恵み」を奪い、自分に必要な最低限の「恵み」すら享受できない状況(下層階の人間に食料が届かない様)になります。

    「恵みの教え」に従うということは、映画で言えばイモギリのように「上層階にいるときは最低限の食事をして、下層にいるときは餓死する」ということになります。生き残るには、トリマガシのように上層階で他人の分の食料を奪い、食いだめをするしかありません。

    こうした状況で、「悪事を犯さずとも恵みを享受できる」、「自分の行いと恵みに因果関係は無い」という「恵みの教え」を説かれても、悪人からしたら「悪事を犯すことが恵みを享受できる唯一の手段」となり、「恵みの教え」に従わないと思います。

    つまり、「キリスト教が性悪説に基づいた宗教であるならば、「悪事を犯さずとも恵みを享受できる」という『恵みの教え』は棄却すべきではないか?もっと悪人を説得し得る教えに変更すべきではないか?」ということです。

    もし、「キリスト教が性悪説に基づいた宗教であること」と「恵みの教え」が両立する場合があるとしたら、
    ①「恵み」は「食料などの物質的な救い」ではなく、悪人が奪えないような「精神的な救い」である
    あるいは
    ②「恵み」は現世で得られる恩恵ではなく、死後得られる恩恵である。
    あるいは
    ③今後、全ての悪人がいなくなれば(全員がキリスト教徒になれば)「恵み」が全員に行き渡る。

    と解釈すれば矛盾がないかと思いますが、本映画では「恵み=食料=現世で得られる物質的な救い」と表現しており、①と②は適しません。③は本映画で描かれていたように「下層階の人間の説得やお願いは、上層階の人間に届かない」ものであり、人類全員がキリスト教徒になることは困難でしょう。
    こういった考えで矛盾していると表現しました。

    逆に言えば、「恵み=悪人がキリスト教徒から奪うことのできるもの」という前提が無ければ、キリスト教が矛盾しているとは言えません。本映画では「恵み」を「食料だけ」で表現していますが、現実のキリスト教では①や②のような「恵み」もあれば、成立する教えだと思います。

    • 論点をより明確にするために、少しアプローチを変えてみましょう。

      【あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
      それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。】
      *以上、本考察記事よりコピペ

      ここにはハッキリと
      【恵みは「神の賜物」であり、私達自身が産み出したものではない】
      と記されています。
      ですが、あなたの解釈(=映画の主張)に従うと
      【恵みは「富や財産」であり、私達自身が産み出したもの】
      となってしまい、聖書が意図するものとは全くの別物になります。

      そもそも「神の賜物」を私達「人間」が産み出せるはずがありません。
      つまり、あなたの解釈を正しく成立させるためには
      「恵み≠神の賜物」
      「恵み=富や財産」
      この二つを順を追って証明する必要がありますが、
      あなたの考察には「恵み≠神の賜物」の証明が欠けているのです。

      聖書において「恵み=神の賜物」と明示されている以上、
      映画における「食料」は「恵み」を表したものとはいえません。
      つまり「恵みの教えがキリスト教の矛盾であり欠陥である」
      という考察は成り立たないのでは?
      というのが私の意図した反論になります。

      これは私見ですが、人間が産み出すことができない「神の賜物」とは、
      地球という自然環境システムから産み出される
      「資源」を示したものだと捉えています。
      その奇跡的なサイクルを「神の御業」として宗教的表現したものが
      「恵みの教え」ではないでしょうか。
      「自然破壊をやめ、自然と共に生きよ」という、
      人類への戒めなのかもしれませんね。

      察するに、イエスは類まれな哲学者であると同時に、
      天才的な科学者でもあったのでしょう。

      • ご丁寧にありがとうございます。


        >あなたの考察には「恵み≠神の賜物」の証明が欠けているのです。
        「恵み=神の賜物」として考察しています。
        まず、この映画において、食料は人間(穴にいる人々)には生み出せない物として描かれています。0階にいる管理者は、神や天使等のメタファーとして捉えることで、「食料は神から授かりし人間には生み出せないもの」に見えます。


        >あなたの解釈(=映画の主張)に従うと【恵みは「富や財産」であり、私達自身が産み出したもの】となってしまい、
        ここの解釈が少し異なります。
        仰る通り、人間は恵みを生み出すことはできませんが、恵みを「富や財産」に変換することができるのではないでしょうか。本映画では、食料を貯蓄することで、恵みを富や財産へと変えています。

        >聖書において「恵み=神の賜物」と明示されている以上、
        >映画における「食料」は「恵み」を表したものとはいえません。
        >つまり「恵みの教えがキリスト教の矛盾であり欠陥である」
        >という考察は成り立たないのでは?

        ①及び②より、映画における食料は恵みを示したものだと考察しています。

        • 「恵みの教え」の一つ一つを、映画(考察)と比較検証してみましょう。

          【それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。】
          「恵み」とは神の賜物のことであり、人によって「富や財産」に変換されてない状態のもの。
          つまり「恵み=食材(資源)」である。

          【決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。】
          映画内で提供される「豪華な食事」は、「人の行い」によって「富や財産」に変換された状態のもの。
          つまり「恵み≠豪華な食事(富や財産)」である。

          >食料は人間(穴にいる人々)には生み出せない物
          >0階にいる管理者は、神や天使等のメタファーとして捉えることで、
          「食料は神から授かりし人間には生み出せないもの」に見えます。

          上述したように、ここで用いられている「食料」は、同じものを意味していません。
          (前回のコメントで「食料」というアバウトな表記を用いた私のミスですね…。
          もっと厳密に「恵み=食材(資源)」「恵み≠豪華な食事」と書きわけるべきでした。
          申し訳ありません。)

          *ここまでの解釈については、一旦、監督の意図、映画の主旨などは抜きにして、
          純粋に「恵みの教え」解釈の正誤のみを考えてください。理由は後ほど。

          さらに考証を進めます。

          【神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。】
          仮に、0層の管理者が神(そのメタファー)であったとしたら、
          どのような理由から「神の賜物」である食材を料理して、人間たちに提供しているのでしょう?
          「恵みの教え」のどこをみても、そういったことは記されていません。
          神が人間にしてくれたことといえば「あらかじめ備えて下さった」ことだけです。
          そもそもの理由からして「だれも誇ることがないため」に「神の賜物」を用意したはずなのに、
          その神自らが「豪華な食事」という争いの元を作るのは、おかしな話です。

          >人間は恵みを生み出すことはできませんが、
          恵みを「富や財産」に変換することができるのではないでしょうか。
          映画では、食料を貯蓄することで、恵みを富や財産へと変えています。

          例えば映画内で、生の食材をそのまま台に載せて提供していたのなら
          「あ~、さては恵みの比喩だな」となって、本考察記事も成立します。
          ですが、そうはなってはいませんよね?
          食材を「豪華な食事」に変換してしまっている段階で、
          それはもはや聖書の言う【恵み(神の賜物)】とは全くの別物を指していると捉えるべきでしょう。

          以上を踏まえて「監督の意図」「映画の主旨」を考えてみましょう。

          私達日本人にはイメージしにくいかもしれませんが、
          こと宗教、その教義、こと聖書、その解釈に関しては、
          それらが「神の言葉を語っている」という建前上、茶番にも思えてしまいますが、
          必ず「真理」若しくは「教会の見解」という時代時代の真実が存在するのです。
          それは(異端とされるものを除いた)キリスト教圏全体で共有している共通認識ですので、
          監督が個人的に「俺はこう思うよ~」と主張しても、誰一人まともに取り合うことはないでしょう。
          2000年の歴史をもつ世界宗教とは、つまりそういうことです。

          冒頭で触れた「恵みの教え」解釈は、要するに「老若男女の共通認識」にあたります。
          制作に携わった(監督ふくむ)スペイン人スタッフたちが、
          もしこの映画を「恵みの教え」と関連付けたかったのであれば
          決して教えと矛盾するような表現「恵み=豪華な食事」を用いることはしないでしょう。
          比喩表現は、その目的となる「喩えの正解」が紛れもない事実である(客観的にみて事実誤認がない)
          ことが必須条件で、もしそうなっていないなら観る者に伝わる筈もありませんから。

          • 映画において「豪華な食事」を「恵み」と表現しています。(1時間27分頃のゴレンとトリマガシとの対話)
            トリマガシ(の幻影)が発言しているだけなので、それをもって「豪華な食事=恵み」と判定はできませんし、原文のスペイン語では「abundancia」という言葉であるため、「恵み」という表現が適切かどうかの考察の余地もありますが、この発言をきっかけに、キリスト教の「恵み」とは何かについて調べ、総合的に考えて、「豪華な食事=恵み」であると解釈すれば、『この映画の新しい見え方ができるのではないか』と思い、本記事の考察を書きました。

            >比喩表現は、その目的となる「喩えの正解」が紛れもない事実である(客観的にみて事実誤認がない)ことが必須条件で、もしそうなっていないなら観る者に伝わる筈もありませんから。

            ここが私と認識が異なります。まず比喩表現は、伝えたい事象を別の物に例えるから比喩表現であり、天気とキャラクターの心情をリンクさせる(例:どんよりした曇り空でキャラクターの不安を比喩表現)というわかりやすいものもあれば、特定の文化圏に所属していなければ全く理解できない比喩表現もあります。
            それこそ、「伝わる人に伝わればいい」と思って表現をする者もいますし、新しい発見や面白い表現につながるという理由で、通常ではなぞらえないもので比喩することはままあります。
            わかりやすい例であげた天気と心情の比喩表現すら、雨が救いである文化圏の人から見たら、理解できないものになるでしょう。
            そして映画は商業的な制約がありますから、インパクトのある画を優先することがあります。今回のケースでいえば、仮に「恵みを豪華な食事で比喩表現するなんてあり得ない」という前提があったとしても、あり得ないことを敢えてやることで、インパクトのある画や新しい解釈につながるため、採用するということは十分にありうることではないでしょうか。
            何より、私はこの映画を「キリスト教徒側が、『キリスト教に疎い異教徒』へ向けた作品」だと解釈しているため、それこそキリスト教的にあり得ない比喩表現でも採用する可能性はあります。おそらく
            スーさんから見れば、「豪華な食事=恵み」と解釈できないぐらい、否定要素があるのだと思いますが、それはキリスト教に詳しい方の視点故のものであり、異教徒である私から見たらその否定要素は納得できませんでした。ですが「異教徒向けの作品」という仮定をした場合、それら否定要素は無視するという解釈もできるのではないでしょうか。

            >それは(異端とされるものを除いた)キリスト教圏全体で共有している共通認識ですので、
            監督が個人的に「俺はこう思うよ~」と主張しても、誰一人まともに取り合うことはないでしょう。
            2000年の歴史をもつ世界宗教とは、つまりそういうことです。

            と仰いますが、今主流となっている解釈も最初は異端とされていたのではないでしょうか。誰かが新しい解釈をして、それが大勢に受け入れられて主流となるという過程を経たものであるはずです。であれば、この映画が新しい解釈としてこのような表現をした作品として世に出てきてもおかしくありませんし、それが受け入れられれば主流となり、でなければ異端となって消えていくだけの話であって、一見受け入れがたい表現であっても、その存在そのものを否定する材料とはなりえません。

  • 成る程!!!と思わず唸る程素晴らしい考察だと思いました。認定証=最後の審判=トリマガシが認定証を貰えない。も成立しますね。
    いやぁ、脱帽です。
    ここまで知識があれば見える景色が変わるでしょう。その恩恵を少し分けて頂けた気分です。
    ありがとうございました。

  • 非常に興味深く読ませていただきました。

    今回は少々、ぶっちゃけた話をさせてもらいます。

    「そもそも親父の遺言「恵みの教え」に従って過ごしてさえいれば、何も問題は起きなかった。
    ところが愚かな息子が、親父超えを狙うあまり「資本主義体制」なる新システムを勝手に構築。
    その結果、親父が警告していたとおりの様々な社会問題が生じてしまった。
    この深刻な事態を招いた要因は紛れもなく、
    親父の遺言を守らず、勝手に暴走した「息子自身の浅はかさ」にある。
    それにも関わらず傲慢な息子は
    「おれの考案した資本主義システムは全人類にとっての正しい道。
    それが上手くいかないのは親父の遺言内容が古臭いうえに、
    現行システムと矛盾しているせいに違いない」と責任転嫁。
    挙句の果て、遺言内容の矛盾点を修正すれば自分のミスも帳消しになると思い込むに至る。」

    というのが、私が読み取った考察記事内容となります。(間違っていたらご指摘を)
    表現のプロフェッショナルであるはずの監督が、
    あろうことか「愚かな息子が、親父へ【いちゃもん】をつける映画」を作ったことになりますね。
    そのような映画が数々の国際映画祭での栄冠に浴するとは思えなかったので、
    考察のほうに矛盾があるのではないか、というのが反論投稿のキッカケでした。

    比喩表現に関して言わせてもらうと、映画という表現である以上、
    不特定多数の人を納得させねばなりません。
    まずは映画内で「新説足り得る根拠」を示し、
    その後それに擬えた比喩を使うのなら、まだ分かりますが、
    そういった順序を踏まず根拠もなしに比喩を使われたとて、観客にその意図が伝わる筈もありません。
    たとえ比喩表現でも、納得させるには「根拠(多角的な視点に基づいた事実)」を
    示さねばならない点では同じです。
    そうなっていないなら、それは「表現」ではなく「監督個人の妄想」に過ぎないのです。
    監督の意図が分からない、監督の頭の中だけに正解があるのなら、観客はどう反応するでしょう?
    答えは無反応(スルー)か、あるいは「誤解、曲解」です。
    それこそクリエイターが最も忌避すべき反応で、もちろん映画監督としても失格です。
    (私が見るかぎり監督は、それを弁えていないほどの素人ではないです。)
    もし、この映画が
    「新しい解釈としてこのような表現をした作品として世に出す」ことが目的だったなら、
    観客に対して余りにも不誠実で(監督目線からみても)不適切な表現方法だと思いませんか?
    自分には、これほど優秀な監督が、素人のような比喩表現を採用するとはとても思えません。
    それよりも「恵の教え」とは関係のない、なにか別の懸念事案を示唆したものとして捉えたほうが
    より自然で合理的な解釈ではないでしょうか。
    (っていうか、そこを汲み取ってあげなければ
    監督の才能には気付けないと断言できるくらい重要なポイントです)

    *いちおう断っておきますが、なぜこれほどまでに一個人の映画考察、解釈に拘っているかというと、
    監督個人の名誉(映画監督としての力量)に関わってくる内容だったからです。
    目的はガルデル・ガステル=ウルティア監督が決してキワモノ監督ではないことの証明であることをご了承ください。

    傲慢な人間が、己の際限なき欲望を満たす為に創り出したのが「資本主義システム」です。
    (そうでなければ共産主義思想との力関係は逆になっていたでしょう)
    それに先立って、神と人間の理想的関係性を提示して
    「人間よ、謙虚であれ」と示したのが「恵みの教えシステム」だと思います。
    それが何ゆえに「自らの教えと相反するシステムの欠陥」の尻拭いをしなければならないのでしょうか?
    悪人が得をする世の中、それが可能な欠陥システムを創ってしまったのは私達の自己責任です。
    そもそも「恵みの教え」が、そういった行為を禁じている以上、
    「教え」が正しかったことを証明したに過ぎないのですから
    その慧眼を称賛されることはあっても、非難される謂れはないのではないでしょうか?

    以前の投稿でも書きましたが、両者の関係性は「二者択一」であって、
    決して互いをフォローしているわけではありません。
    資本主義体制下で起こった社会問題は、資本主義理論内で解決すべき問題であって、
    今更キリスト教の教義、あるいはイエスや神に泣きつくのはお門違いといえるでしょう。
    キリスト教は、飽くまでもキリスト教内で完結した教えであり、
    指摘されたような矛盾点はないと思います。

    あなたの言う通り、聖書の教えを忠実に実践したなら世界人口の殆どは生きていけないでしょう。
    その一方で「近い将来、人類は資本主義中毒によって中毒死するだろう」と
    予見されているのも事実です。
    どちらが正しい選択なのかは「神のみぞ知るところ」であり、
    イエスは「ひとつの選択肢」を示したに過ぎません。
    その真意を汲み取れずに、傲慢にも自らが神の如く振舞ったのが人類であり、
    その結果、難しい選択を迫られる事態にまで人類を追い込んだのも他ならぬ私達自身なのです。
    神の真似事をしている現状を俯瞰するに、
    私達は性懲りもなく、いまだにバベルの塔を作り続けているのかもしれませんね。

    最後になりましたが、いつも丁寧な返信ありがとうございます。
    読者に対して誠実であろうとするあなたの姿勢には感嘆しかありません。
    投稿内容に失礼な点があったかもしれませんが、熱量あまってのことですので、どうかご容赦を。

    • 聖書の解釈について書き忘れていたので追記します。

      「教会の見解という時代時代の真実」が主流解釈であり、
      いつの時代においても、それ以外は存在しません。
      教会以外の誰かが新しい解釈をして、
      それが大勢に受け入れられて主流となる、という過程が有り得ないのは、
      その行為そのものが「異端」となるからです。
      (敢えて「茶番」という言葉を使ったことで察してください)

      日本人の言う「常識」という言葉を思い浮かべてください。
      あれは個人の限定コミュニティ内における経験則を錯覚したものに過ぎませんが、
      キリスト教圏においては、
      個人の思惑に関係なく「厳然たる常識」というものが確かに存在しているのです。
      それが「教会の見解という時代時代の真実」であり「共通認識」なのです。

      何かを批判する際、合理的な理由が前提に無いのなら、それはただの誹謗中傷でしかないのですから、
      たとえ異教徒相手であっても(共通認識を考慮せずに)
      「否定要素は無視するという解釈」を前提とした批判は、有り得ないのではないでしょうか?

  • 恐縮ですが更に追記です。
    指摘のあった01:27:47からのトリマガシの言葉が気になったので再視聴してみたところ、

    「Te atreviste a malgastar las recompensas del Nivel 6、
    mi pequeño caracol.」と、私には(辛うじてですが)聴きとれました。

    直訳すると、
    「私の小さなカタツムリよ、お前は、敢えてレベル6からの報酬を無駄にしたな」となります。

    日本語字幕版では「第6層の恵みをまき散らすとは大胆だな」となっていますが、
    「las recompensas del」の邦訳は「~の報酬」であって、
    なんらかの対価としての報酬を意味します。
    与えられるだけの「恵み」とは、明らかに意味合いが違います。
    つまり、映画に登場する食料は「現実の経済活動における対価報酬の比喩表現」として
    捉えるべきではないでしょうか?

    • 正確を期すために更に調べてみました。

      聖書における「恵み」をスペイン語でいうと
      「gracia」(気品、優雅、美しさ、愛らしさ、神の恵み、恩顧、恩赦)となります。
      「recompensas」を「恵み」と同義で使用する用例は見当たりませんでした。

      日本語翻訳家が、どのような意図で「恵み」を用いたかは分かりませんし、
      素人の私が、プロの仕事にケチをつけるのもなんですので、
      誤訳と見做される可能性が極めて高い、精度の低い翻訳であると指摘するに留めておきます。

      *ちなみに「abundancia」は「大量、豊富、過剰」を意味します。

      • >最後になりましたが、いつも丁寧な返信ありがとうございます。
        読者に対して誠実であろうとするあなたの姿勢には感嘆しかありません。
        投稿内容に失礼な点があったかもしれませんが、熱量あまってのことですので、どうかご容赦を。

         このようなお話ができる機会がなかなかないので、とてもいい刺激を受けています。お付き合いいただきありがとうございます。
         本記事の考察内容は、時間をかけて考察したものであるため、少なからず愛着はありますが、より納得のいく考察、或いはより面白い解釈があれば、修正・統合するつもりです。こういった対話で、より精度の高い考察になれば幸いです。
         また、私の映画(その他創作物)に対するスタンスとして、「受け取り手の解釈がすべて」としています。つまり、製作者がどんな意図で製作しようが、受け取り手がどのように受け取ってもそれは受け取り手の自由であり、受け取り手にとっては真実だと考えています。そのため、私と異なる解釈を否定しませんし、製作者がどのような人間か、製作者がどのような意図で製作したかは敢えて気にしないようにして、製作物からの情報を元に解釈をしたいと考えています。
        受け取り手に依存するため、製作者の意図とは異なる解釈をすることもありますが、どちらが正しい・間違っているというものではなく、それぞれがそれぞれにとって真実であるという前提でいます。そのうえで、私の解釈について意見をいただいた部分について回答いたします。


        >それよりも「恵の教え」とは関係のない、なにか別の懸念事案を示唆したものとして捉えたほうが
        >より自然で合理的な解釈ではないでしょうか。

        「別の懸念事案を示唆したもの」とは何なのか、スーさんは別のコメントで「現実の経済活動における対価報酬の比喩表現」のように考察されています。私も同じように考察したことがありましたが、以下の点で腑に落ちなかったため、採用しませんでした。

        (1)料理を提供する管理者と「穴」の住人が明確に断絶されている
        (2)「穴」にいる人間に対して一方的に与えている

        経済活動における報酬が、何もしていない人間たちに対して、決まった物(管理者にオーダーしたもの)が、決まった時間に、天(管理者)から無条件に与えられるものとして表現されていることに違和感が残りました。経済活動であれば、「穴」の人間たちの中で完結するような表現になるのではないかと思っています。

        ②トリマガシの言葉について
         ご指摘の通り、トリマガシの発言は、聖書の「恵み」という言葉とは一致しません。私の考察記事は、トリマガシが「恵み」と発言したことが切っ掛けではありましたが、私もトリマガシは「恵み」という意味で発言していないと思います。


        >「そもそも親父の遺言「恵みの教え」に従って過ごしてさえいれば、何も問題は起きなかった。
        >ところが愚かな息子が、親父超えを狙うあまり「資本主義体制」なる新システムを勝手に構築。
        >その結果、親父が警告していたとおりの様々な社会問題が生じてしまった。
        >この深刻な事態を招いた要因は紛れもなく、
        >親父の遺言を守らず、勝手に暴走した「息子自身の浅はかさ」にある。
        >それにも関わらず傲慢な息子は
        >「おれの考案した資本主義システムは全人類にとっての正しい道。
        >それが上手くいかないのは親父の遺言内容が古臭いうえに、
        >現行システムと矛盾しているせいに違いない」と責任転嫁。
        >挙句の果て、遺言内容の矛盾点を修正すれば自分のミスも帳消しになると思い込むに至る。」
        >というのが、私が読み取った考察記事内容となります。(間違っていたらご指摘を)

        この「父子の例え」に沿って言えば、私の考察記事内容は以下の通りです。
        「息子は親父の遺言「恵みの教え」に従って過ごしていたが、そんなことを気にしない隣人が「恵みの教え」に従わず、めちゃくちゃな行いをして、息子にも被害が及び、息子はちゃんと「恵みの教え」に従っているのにもかかわらず、親父の言うような生活ができない」

        資本主義は関係なく、「悪人」がどこかに存在するだけで成立しないものだと考えています。全員が「キリスト教徒」なら成立すると思いますが、キリスト教が成立した当時でさえそれは現実的なことではなかったと思います。
        さらにこの映画では「全員が教えを守っていたら全員幸せなのに」という思いを打ち砕くエピソードとして、イモギリが200階以上ある「穴」に絶望して自殺する場面があります。このシーンは全員がキリスト教徒として生きても、恵みを享受できない人々がいる残酷な現実世界を描いたように受け取りました。


        >「教会の見解という時代時代の真実」が主流解釈
        >それが大勢に受け入れられて主流となる、という過程が有り得ないのは、
        その行為そのものが「異端」となるからです。

        仰る通り、一宗派としては「異端」としていると思いますが、正教会やカトリックとプロテスタントに分かれたように、教会内で意見が対立し、分派した後、それぞれが大衆に受け入れられたことは、実例としてあるのではないでしょうか。歴史的に見れば、「異端」が「主流」に、或いは「主流」だったものが「異端」とされていませんか。

        元々の話では「監督が『異端』となる解釈をしても誰も取り合わない」ということですが、それは十中八九その通りだと思います。ですが、そういったことを理由に、作品に対する感受性を鈍くしたくないと考えています。

  • 以前、某大手通販サイトのPrime Videoにて、本作のレビューを投稿しました。
    新たな知見を得るたびに再編集を繰り返していたところ、
    1/6頃、監督へのインタビュー記事を引用し、そのリンク先を記載したら消されてしまいました。
    1/9、編集し直したものを再投稿したら、なぜか、ものの数分で反映されたので
    アカウント名「Junya」のレビューを参照していただければ私の考察がご理解いただけるかと思います。
    (投稿当日にも関わらず謎のサムズアップが付いているのは、そういった経緯です。)

    *問題となったであろう引用記事は以下の通りです。

    記者:「What do you envision happening after the events of the film?
    Will the message be received?」

    (あなたはこの映画において多くの懸案を提示しましたが、それはどのような反応を予想されてのことでしょう?
    あなたの思惑どおりのメッセージは届いたのでしょうか?)

    監督:「That’s something that you should ask society.
    It’s up to all of us .… It depends on whether we want to remain the most miserable species
    that have ever set foot on this planet or if we want to …」

    (それがどのような反応であれ、(私にではなく)社会そのものに問うべきことだ。
    この惑星に降り立ったありとあらゆる種の中で、
    史上最も「厚顔無恥な種」として、この先も居座り続けるかどうかは私達次第なのだから…。)

    *引用元:collider.com/the-platform-ending-explained

    ①の回答
    今回の再投稿の際、ごっそりと削ったのが最上層に関する考察部分でしたので、
    この場をお借りして以前の投稿の原文をコピペしておきます。

    【映画冒頭のトリマガシによるナレーションから最上層を考察してみる。

    「三種類の人間が居る。
    上にいる者、下にいる者、転落する者」

    これは「上(搾取する側)下(搾取される側)」という資本主義経済の二元構造を端的に顕したもの。
    敢えて中間層に言及せず、転落する者という言葉を選んだところがミソである。
    留まる気配のない「所得格差の拡大(中間層の衰退)」を示している。

    本作においては最上層の厨房こそが「不動の上層(搾取する側)」であり、
    それ以下の階層は「搾取される側によるドングリの背比べ」として描かれているように思う。
    本来なら「上」に対抗して団結すべきはずの「下」の労働者同士が、
    限られた分配を巡って相争っているという「近視眼的愚かさ」を浮き彫りにしたものだろう。

    * 背景にあるスペインの雇用情勢について(2022年現在)
    4人に1人が有期雇用であり、さらに雇用契約の3分の1が7日未満の短期契約。
    映画で描かれている毎月の入れ替えどころの話ではない、毎週の入れ替えが現実に行われている。
    スペインに限らず雇用情勢の芳しくない海外においては、「上」以外の人間は極めて流動的な立場にある。
    VSCにおける月毎のランダムな入れ替えも、不安定な雇用の象徴として捉えると腑に落ちる。】

    ②の回答
    そうであったなら、映画内容と「恵みの教え」を関連付ける別の根拠を提示すべきではないでしょうか?

    ③の回答
    >「悪人」がどこかに存在するだけで成立しない
    >キリスト教が成立した当時でさえそれは現実的なことではなかった

    と仰っていますが、キリスト教は民主主義に則っていません。
    教えに従わない者(悪人)は滅ぼしていいとさえ言い切っているくらいですから、
    むしろ、民主主義の対極に位置する「権威主義」を思想背景とした団体です。
    私達の感覚でいうと「現代民主主義において、それは現実的なことではない」ですが、
    「キリスト教が成立した当時は充分に現実的」な思想背景だったはずです。
    喩えとして民主主義を挙げましたが、要するに、
    「彼等には彼らなりの悪人排除の手段があり、それは現代資本主義社会では通用しない。
    その逆もまた真なり。」といえば分かってもらえるでしょうか?

    イモギリの絶望についても、過去レビューで言及した原文を貼っておきます。

    【「ラムセス二世」
    イモギリが持ち込んだ飼い犬。
    イモギリとラムセス二世の関係は、自発的連帯感の具体例として描かれている。
    癌に侵されたイモギリが、苦しみの少ない身投げを選ばず、
    敢えて、ゴレンの食料となる選択を取ったのも自発的連帯感を体現したもの。
    暴力の介在を必要としない、「言葉」によるデモンストレーションを示唆している。】

    ④の回答

    >「異端」が「主流」に、或いは「主流」だったものが「異端」とされていませんか。

    実際の歴史は、確かにあなたのおっしゃる通りです。
    それを教会による「茶番」と表現しました。
    なぜそれが、本作においては有り得ない事と決めつけたかというと
    長い歴史において繰り返されてきた「茶番」を、それと分かっていながら
    改めて映画という表現媒体を利用して披露するようなことは考えられないからです。

    もちろんこれは私の主観であり、確たる根拠はありません。
    ですが傍証として

    2019年のサンダンス映画祭で大好評を博し、ミッドナイト・マッドネス観客賞を受賞
    シッチェス映画祭では最優秀作品賞を受賞
    トロント国際映画祭で観客賞を受賞

    これらの審査員、大勢の観客たちが揃いもそろって「茶番」を受け入れたかと問われると
    「そんなことは有り得ない」と言わざるを得ないのです。

    最後に「映画考察」についてですが、

    >「受け取り手の解釈がすべて」としています。
    >製作者がどんな意図で製作しようが、
    受け取り手がどのように受け取ってもそれは受け取り手の自由であり、
    受け取り手にとっては真実だと考えています。

    もちろんその通りだと思います。
    映画考察は個人の自由であるべきで、それ自体を否定する為に反論している訳ではありません。
    その証左として、

    ・「恵みの教え」解釈への誤解を指摘
    ・キリスト教に矛盾があるとする主張への反証

    この2点に限って反論を展開してきたつもりです。

    その理由については、前回の投稿でも書きましたが、

    >なぜこれほどまでに一個人の映画考察、解釈に拘っているかというと、
    監督個人の名誉(映画監督としての力量)に関わってくる内容だったからです。
    >目的はガルデル・ガステル=ウルティア監督が
    決してキワモノ監督ではないことの証明であることをご了承ください。

    他に合理的な解釈が可能であるにも関わらず、
    それを考慮せず、結果的に監督の才能を貶めるような内容には、
    たとえ個人の映画考察であっても反証すべきだと思ったからです。
    つまり、

    >何かを批判する際、合理的な理由が前提に無いのなら、それはただの誹謗中傷でしかないのです

    かといって、あなたの考察記事を修正、統合すべきだとは断じて思いません。
    これまでの私達のやり取りを含めて、本考察記事を読む人がどう判断するかが肝心であり
    今となっては、対立する考察の落としどころ、思考実験を提供する場として、
    非常に有意義で斬新な考察記事であるとさえ私は感じています。

    *このようなかたちで自分のレビューに言及し、読者を誘導するのは場違いであり本意ではありません。
    ごぱん様が、ご一読したらこの返信は削除してください。

    • ③の回答の補足

      >そんなことを気にしない隣人が「恵みの教え」に従わず、めちゃくちゃな行いをして
      >息子にも被害が及び、息子はちゃんと「恵みの教え」に従っているのにもかかわらず、
      親父の言うような生活ができない

      つまり、息子は被害者ですよね?
      滅茶苦茶な行いをする隣人を悪人として罰し、二度と罪を繰り返さないように
      適切な更生施設にて再矯正することが社会の務めではないでしょうか?
      なぜ、被害者である息子の信仰をかえることが解決手段となるのかが理解できません。

      犯罪者だけが悪いのではなく被害者側にも非が認められるので、
      どちらも悪いという理屈でしょうか?
      私としては、たとえ被害者側に隙があったとしても、
      そこに付け込んだ犯罪者側に圧倒的な非があり、罰せられるべきだと思っています。

      そもそも隣人が、なぜ「滅茶苦茶な行い」をしたかというと、
      「恵みの教え」に従わなかったという前提があるわけですよね?
      隣人には「教え」に代わる行動倫理があったということです。
      その行動倫理を是正することこそが根本的な解決であって、息子の信仰内容を変えることは
      なんの解決にもならないのではないでしょうか?

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