評判の割には微妙でした。以下、何故私にはこの映画が合わなかったかを書いていきます。
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- ストーリー
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- おふざけ度
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- 映像
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- 演技
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- テンポ
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評価:
「ミッドサマー」の概要
あらすじ
家族を不慮の事故で失ったダニー(フローレンス・ピュー)は、大学で民俗学を研究する恋人や友人と5人でスウェーデンの奥地で開かれる“90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。
ミッドサマー – 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画
出演・監督・ジャンル等
- 出 演 :フローレンス・ピュー, ジャック・レイナー, ウィル・ポールター
- 監 督 :アリ・アスター
- ジャンル:ホラー, サスペンス
- 上映時間:147分
- 国 :アメリカ合衆国, スウェーデン
- 公開年 :2019年(日本2020年)
以下「ミッドサマー」のネタバレあり。
「ミッドサマー」感想①テンポの悪いダラダラとしたストーリー
ながーい!
とにかくダラダラと進行して、意外性もなく終わる。
この映画の狙いとして、牧歌的な村かと思ったらやべえ文化の村で、監禁も暴力も受けていないのに逃げることができず、いつの間にか生贄にされているという”じわじわ”とした恐怖なので、どうしてもダラっとした印象になるのは仕方がないのかもしれないけど、それにしたって良くわからん儀式の連続で飽きる。そこは飽きないような工夫を入れるか、もっと短縮できたのではないかと思う。
”明るい雰囲気なのに何故か不気味という映像美”にハマった人には各儀式も興味深く見ることができるのかもしれないが、そこに興味をひかれなければ退屈な作品に感じるだろう。
「ミッドサマー」感想②ホラーかギャグか
ホルガ村で行われる様々な儀式を見て、気持ち悪さや不気味さを感じることができるのであれば、ホラーとして成立するが、私はギャグシーンとして受け取ってしまい、笑ってしまった。以下、私的ギャグシーン。
- 村人に話しかけたら猫騙しではぐらかされるクリスチャン
- 村のおばさん参加型のセックスシーン
- 熊の皮を着せられるクリスチャン
- 雑に埋められたジョシュの足
- 目をくり抜いて花を詰めたり道化師の帽子をかぶせたり死体で遊ぶ
- 村の生け贄候補をビンゴゲームで決める
村人に話しかけたら猫騙しではぐらかされるクリスチャン

「すみません、あれはいったい何をしているのですか?」と村人に丁寧に尋ねるも、猫騙しを食らい意識がもうろうとするクリスチャン。いきなり猫騙しされるのも意味不明だし、「なんでそんなことするんですか?」と泣きそうな顔で言うクリスチャンがシュールで面白い。
村のおばさん参加型のセックスシーン
多分この映画最大の見せ場にして、一番気持ち悪くなるシーンだと思うが、やはり笑いのほうが勝ってしまった。セックスするときに全裸のおばさんが一緒に喘ぎだして、最終的には後ろから男のケツを押し出す絵面はシュールすぎて笑ってしまった。
熊の皮を着させられるクリスチャン

「え?解体されるんじゃなくてクマに入れられるの?」みたいに目を見開いたクリスチャンの顔がツボ。それまで薬のせいで目を開けられていなかったから、その分面白い絵になっている。
雑に埋められたジョシュの足

なんで植えた?隠すにしては雑すぎるし、後から生け贄の儀式に使用するにしては、面倒な処置だ。
目をくり抜いて花を詰めたり道化師の帽子をかぶせたり死体で遊ぶ
blood eagleという伝承にある拷問方法らしいのだが、なんで目に花を詰めた?
村の生け贄候補をビンゴゲームで決める

完全にビンゴゲームのそれ。しかもボールに書いてあるのがルーン文字なので、おっさんが適当に名前読んでそうと想像してしまい笑ってしまった。
「ミッドサマー」感想③何故私には受け入れられなかったのか
先述したテンポが悪い、ホラーシーンをギャグとして受け止めてしまったといった理由もあるが、私がこの映画に入り込めなかった最大の要因は「リアリティがない」と思ってしまったことだ。
「フィクションなのだから、リアリティがないのは当たり前だろ」と思うかもしれないが、フィクションだからこそ、リアリティを大事にしてほしいと思っている。フィクションだからと言ってご都合主義的なストーリー展開が続くと冷めるように、私にとってこの映画を楽しむためにはリアリティが重要だった。これがノンフィクションやドキュメンタリーならどんなご都合主義な展開でも気にならない。何故なら事実に基づいているからだ。しかしフィクション作品で「何故」の部分をおざなりにしてしまうと、フィクションとして見ている視聴者でも「こんなの有り得ない」と一歩引いてしまう。
私から見たらこの作品は「何故そうなる?」という部分が多すぎて、没入できなかった。あまりにもリアリティのない文化で、村人や村の文化がただの舞台装置に見えてしまい、狂気的な村人達の行いも「フィクションだしなんでもアリだよな…」と冷めてしまった。
以下、私の冷めポイント。揚げ足取りに見えるかもしれないが、一度拒否反応が出てしまうと細かい点まで気になってしまうものだ。
豊かな時代にあるはずのないアッテストゥパン
72歳になると飛び降り自殺をする儀式”アッテストゥパン”は、共同体を維持するために生産性の低い老人を間引く”口減らしの文化”なのだろうが、豊かになった現代においても続いている理由がない。勿論、彼らが外の世界と交流せず、昔ながらの生活を続けていれば別だろうが、村には車もあるし”巡礼の旅”として外の文化に触れる機会がある。”巡礼の旅”に出ている人々だけでなく、村の子どもたちは「オースティン・パワーズ」を観ることができる描写もあり、外の文化を取り入れている様子があった。それだけ外の文化と触れる機会がある中で、共同体の一員を間引く文化が残るのは極めて不自然である。生活が豊かになるにつれて不必要となる文化ではないだろうか。
そもそも姥捨て山やアッテストゥパンといった”生産性の低い老人を捨てる・殺すシステム”の伝承は世界各地にあるが、いずれも「老人を大切にせよ」という教訓とセットであり、実際に老人を口減らしするシステムが史実に存在した証拠はない。それ故、「何故アッテストゥパンがこの村には存在するのか」という理由付けがより必要となるのだが、「老いて死ぬ前に、自らの命を次世代に与える」という宗教観の説明はあっても、「何故そのような宗教観が形成され、それが現代も残っているのか」といった説明はない。
”90年に一度の儀式”と矛盾する描写の数々
90年に一度ということは、全員が初めて行う儀式であるはずだ。ましてや72歳になると自殺する村なので、儀式を見たことがある人もいないだろう。それにしては村人全員が儀式にこなれ過ぎていないだろうか。まるで毎年やっているぐらい当たり前にこなしている。
アッテストゥパンは恐らく村人が72歳になる度に行われているだろうし、メイポール・ダンスは毎年やっていると言っているので慣れていても良いのだが、毎年9人の生け贄を捧げているとは考えにくいので、9人の生け贄の儀式が90年に一度なのだろうか。しかしペレの両親は「二人とも焼死」していることから、ペレの両親も生け贄にされたのではと推測され、ペレが20歳程度であるとした場合、1~20年前ぐらいには行われてなければつじつまが合わない。
この矛盾点を解消するには、「90年に一度は外の人をおびき寄せる嘘」、「9日間の祭りなのに劇中は5日程度しかないため、残りの4日に90年に一度の儀式がある」等が考えられるが、視聴中に悪い意味で引っかかってしまったため、受け入れられない要因となった。
杜撰な殺人を繰り返す村が存続できるはずもなく
生け贄を捧げるたびに、部外者を連れ込んで生け贄として殺害しているようだが、スウェーデンに旅行した人々がまとめて行方不明になっているのに、警察が介入しないことなどあるのだろうか。これが例えば部外者の生け贄を選定する際は、身寄りのない人を選んできているということがあれば、少しは納得できるのだが、身寄りがいないと明らかになっているのはダニーと村側のペレだけだ。
部外者だけでなく、村人達もかなりのハイペースで亡くなっているはずだ。アッテストゥパンという文化があるため、72歳で死ぬ者も多いに違いない。彼ら村人たちは”巡礼の旅”に出ることから戸籍があることが分かっているので、誤魔化すことはできない。
こんなことを長い歴史の中で繰り返しているような村が、警察に見つかることなく存続できるはずがない。
あまりにも生活感のない村
宗教と生活は切っても切り離せないものであり、ちょっとした行いや建物、物や生活スタイルに色濃く反映されるものだ。しかしこの映画では徹底して無機質で、生活感のない村しか出てこない。一方で宗教色を無理矢理出すためなのか、壁に宗教画やルーン文字をこれでもかというほど刻んでいる。
これらの宗教画やルーン文字は、映画においては意味のあるものだが、非常に作為的なものを感じさせるため、リアリティからはかけ離れたものだ。
一見普通の行動や道具に見えて、実はその背景に宗教的な思想が見えてくる…といった自然なギミックではない。宗教画は説明しすぎるぐらい具体的に描かれているうえ、ルーン文字は大きく目立つように表示されており、我々視聴者に対して「見て見て!気づいて!」とアピールしているようでうんざりした。
生活感がないことにより、村の不気味さが際立ったと評価する人もいたが、私は違った。
安っぽい宗教画

本作における宗教画は、物語で登場する儀式や呪いを説明するもの、これからの登場人物に待ち受ける悲劇を暗示するものとして機能している。宗教の雰囲気を伝える大事な要素なのだが、それらの中には、目がハートになっていたり、周りからハートを出ていたりと雰囲気にそぐわないものが登場して、違和感を覚えた。
劇中で今まさに作成されている物なので、現代らしい表現技法が取り入れられているという理由はあるが、どうしても”安っぽく”感じてしまう。
「ミッドサマー」考察①セックスシーンや村人がダニーとともに泣くシーンが気持ち悪いのは何故?
アッテストゥパンで死に損なって痛がる老人を見た村人たちは一斉に呻いたり、クリスチャンとマヤがセックスするシーンでは、周りにいる女性たちが一緒に喘いだりする等、感情を村人みんなで共有する文化がある。何故、このシーンは気持ち悪く感じるのか。勿論、村人たちの声や動きが不快感を煽っているというのもあるが、本質はその異質さだろう。
これは、本来個人のものである「感情」すらも村の共有物として扱われるという、”徹底した個の排除”が気持ち悪さの根源だと思う。
「クリスチャンとセックスをしてどう思うか(気持ちいい、痛い等)」というのは、本来マヤの主観であり、彼女だけのものである。しかし儀式では周りの女性たちが率先して喘ぎ、「気持ちいいもの」としてマヤの感情をお構いなしに塗りつぶす。そこに”個”はない。
「ミッドサマー」考察②ダニーは幸せになれるのか?
ダニーはメイクイーンとなり、かつての彼氏を生け贄に捧げ、泣きながらも最後は笑顔で映画は終わる。このシーンは、死別した家族及び頼りにならない彼氏への依存から解放され、ホルガ村という新しい家族を手に入れた喜びを表していると思われる。
このラストの笑顔をもって、「ダニーにとってはハッピーエンドだ」という見方ができるが、果たしてそうだろうか。
確かに部外者から見たカルト宗教は恐ろしいものだが、身も心も内部の人間になってしまえば、さぞ幸せだろう。ホルガ村においては、遅かれ早かれ生け贄になる運命だが、心から望んでいるのであれば、それも幸せの形のひとつだ。
しかし生け贄になる際の様子を見ると、ホルガ村の住人でさえ、心から望んでいるようには見えない。72歳で崖から飛び降りた二人の老人は、食事を開始するまでの間や、飛び降りるまでの間を見るに、恐れを抱いているようにも見えるし、自ら生け贄として立候補したウルフでさえ、叫びながら燃やされていた。
今は笑顔のダニーも、いざ生け贄となる瞬間には後悔するかもしれない。そしてそれは、遠い先の話ではなく、数日後かもしれない。何故なら去年のメイクイーンとして写真に写っていた女性は、村に存在しなかったからだ。
最後に
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- ストーリー
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- おふざけ度
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- 演技
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評価:
「オズの魔法使い」をモチーフにしていたり、ルーン文字などの描写から、とても丁寧に作られた映画であることは理解できるが、私にとっての面白さにはつながらなかった。どうしてもストーリー展開ありきのご都合主義的な”作り物の宗教”として感じてしまったからだ。そこが気にならない人にとっては極上の映画かもしれない。
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