あまりアメリカの映画・舞台事情に詳しくないので私は楽しめませんでした。
-
- ストーリー
- 3
-
- 身内ネタ
- 5
-
- 映像
- 5
-
- 演技
- 5
-
- テンポ
- 2
評価:
「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の概要
あらすじ
今も世界中で愛されるスーパーヒーロー、バードマン。だが映画シリーズ終了から20年、バードマン役でスターになったリーガンはその後、仕事も私生活にも恵まれず失意の日々を送っていた。彼はレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を自ら脚色し、演出・主演も兼ねてブロードウェイの舞台で再起することを目論む。だが起用した実力派俳優マイクばかりが注目され、リーガンは精神的に追い込まれてゆく。
Amazon.co.jp: バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)(字幕版)を観る | Prime Video
出演・監督・ジャンル等
- 出 演 :マイケル・キートン, ザック・ガリフィアナキス, エドワード・ノートン
- 監 督 :アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
- ジャンル:コメディ, ドラマ
- 上映時間:119分
- 国 :アメリカ
- 公開年 :2014年(日本:2015年)
以下「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のネタバレあり。
「バードマン」感想①テンポが悪く中々進まないストーリー
まず大筋のストーリーとしては、昔ハリウッドで大活躍していた中年主人公リーガンが、心機一転ブロードウェイの舞台で再起を図るもの。あらすじだけ見れば良くあるリスタートサクセスストーリーなのだが、この映画は様々な要素が絡み合って、すぐに寄り道にそれてしまう。そのため、中々本筋が進まずテンポが悪く感じた。
本筋がどうでもよくなるぐらいその寄り道に魅力があるわけでもないので、「このシーンは何の意味が?」と雑念が入ってしまって集中しづらい。ハリウッド映画や演劇に詳しければ、この寄り道が楽しく意味があるものとして見ることができると思われるが、私は詳しくないため退屈な時間が長く続いた。
「バードマン」感想②対立構造を曖昧にする演出にワンカットを利用したのは非凡
この映画の特徴として演出がとてもユニークだ。まず全編を通じてほぼワンカット(風)で物語が進行する。ワンカットで撮ること自体はそこまで珍しいものではないが、この映画はワンカットにも関わらず時間の流れが一定ではなく、場面が飛んだり主人公の妄想が入り込む。
通常ワンカットは主人公と同じ時間感覚を追体験させ、視聴者の臨場感を高めるために使われることが多い。この映画はそうではなく、現実シーンと妄想シーンをワンカットで演出することで、現実と妄想の境目を曖昧にしており、とても興味深い。
例えばリーガンが町中で空を飛ぶシーン。リーガンが空を飛び、窓を開けた女性が上を見上げる。この場面だけだとリーガンが実際に空を飛んでいて、女性が空を飛ぶ男性を見上げたようにしか思えない。しかしその後リーガンは屋上に立っている。そのため、女性が見上げたのは屋上にリーガンが居たからであり、空を飛んでいるのは妄想シーンだったのかもしれないと後から解釈ができるようになっている。
ここで、「妄想シーンだ」と断定できないのは、このシーンに至るまでに主人公が超能力を使っているためである。楽屋で空を飛んでいたり、照明を落として役者をケガさせたり、リーガン自ら「超能力だ」と発言したりするなど、現実なのか妄想なのかを曖昧になるような工夫がされている。

他にも、リーガンが空を飛んで劇場に戻った際に、タクシードライバーが「運賃を払え」と追いかけるシーンがある。一見するとこれは「リーガンが空を飛んでいたのは妄想(演出)で、実際はタクシーに乗っていたんだな」と捉える所だが、映像としてはリーガンはタクシーを降りたシーンが描かれていない上に、お金を払うシーンもない(タクシードライバーはお金を受け取って劇場から出てくるが、誰が払ったかはわからない)。
このように、この映画は細心の注意を払って、現実なのか妄想なのかをわからないようにしている。
そしてこれは「現実と妄想」だけではない。「ハリウッド映画とブロードウェイ舞台(ショービジネスと芸術)」、「私生活と演技」、「男と女」、「芸術家(役者)と批評家」、「役者と観客」等、あらゆる対立構造を、曖昧にして、一体化させていく。
「バードマン」感想③狭く深い業界の知識がなければ楽しめない
この映画は前提知識がないと楽しめない映画なんだろうなと感じた。私は全然知識がなかったため、表現技法以外は面白くなかった。前提知識を要求する映画はたくさんあるが、この映画は、その必要となる知識が狭く深い。
例えばリーガンとマイクが殴り合うシーン。これはマイクを演じるエドワード・ノートンが、映画「ファイト・クラブ」で主演を演じていたことを知っているとニヤリとする場面になるし、現実と妄想の曖昧化という本作のテーマの伏線にもなっている。(私はファイト・クラブを視聴済みだったが、本作視聴中にエドワード・ノートンであることに気づかなかったので大して意味のないシーンだった。)
また、作中劇となる「愛について語るときに我々の語ること」は、実際に発売された1980年代の短編小説であるが、それが現代のアメリカ社会において、特にショービジネスに関わる人々において、どのように受け止められている作品なのか、私にはわからない。
そういった近年のアメリカの知識がないとわからない要素がたくさん散りばめられていて、恐らく私が気づいていないだけで知っている人からしたらもっと楽しめる映画なんだろう。そういったことに疎い私には刺さらない場面が多かった。せいぜいバードマン=バットマンぐらいなものだ。
バードマン考察①ラストシーンは何を意味するのか
この映画のラストシーンは次の通りだ。
舞台で本物の拳銃を使用し自分に向けて撃つも、一命を取り留め病院でベッドに臥せていたリーガンは、敵対していた批評家タビサが新聞の批評記事で舞台を賞賛していることを、親友のジェイクから聞く。大成功だと興奮するジェイクだが、無感情なリーガンを見て、「何故黙っている?望み通りだろ?」と尋ねる。リーガンはぶっきらぼうに「ああ 望みどおりさ」と答える。(中略)トイレで顔を覆っていたガーゼを取り外す。怪我の影響で形が変わった顔を見て、「ひどいな」とつぶやく。隣にはバードマンが便座に座っており、「お別れだ クソ野郎」とつぶやく。その後、窓の下を覗き渋い顔をした後、目線を上にやると鳥の群れを見つけたリーガンは少し笑顔になり、そのまま窓から身を乗り出す。病室に誰もおらず、窓が開いていたことに気づいた娘のサムは、慌てて窓を乗り出し下を見るが、そのままゆっくりとやや上空を見た後、目を輝かせて微笑んだ。
何となく見ていると「何故リーガンは実銃を使用したのか?」、「何故タビサは劇を絶賛したのか?」、「何故リーガンは窓から飛び出したのか?」、「飛び降り自殺なのか、あるいは空を飛んだのか?」等、モヤっとしたものが残るかもしれない。私の考察は以下の通り。
リーガンが実銃で自身の鼻を撃ったのは、高いプライドを捨てたことを意味する
リーガンが飛び降りたシーンを理解するためには、「何故リーガンが実銃を使用して鼻を吹き飛ばしたのか?」を考える必要がある。
元々リーガンは大衆人気はあるが、演技等の実力は評価されていない俳優である。現状の評価に不満を持つリーガンは大衆人気を捨て、演技を評価されたいがためにブロードウェイの舞台で再起することにした…のだが、上手くかない。そうした中、バードマンの幻覚が誘惑する。「世間はお前にバードマンを求めている。重苦しい演技なんていらない」と。
バードマンの誘惑に負けたリーガンは、楽屋から実銃を持ちだし、自身を撃つ。これによりリーガンは鼻を吹き飛ばし、人工の鼻を付ける。このシーンは「今まで高いプライドを持って自身を評価されたかったリーガンが、バードマンの誘惑に負けて大衆に迎合するようなこと、つまり大衆が喜ぶ雑でセンセーショナルなこと(劇で本物の銃を使用して自身を撃つ)を行い、鼻っ柱(高いプライド)を捨てた」ということを表現したのではないだろうか。
タビサの真意は?
「劇がどんな出来だろうと関係ない。初日が終わったら史上最悪の批評を書き、芝居を打ち切りにしてやる」とリーガンに対し敵意むき出しだった批評家タビサだが、実際に記載された批評は、皮肉たっぷりとはいえ、「史上最悪の批評」には見えない。何故タビサは心変わりしたのだろうか?
素直に見ると、「余りにもリーガンの演劇が素晴らしかったため、心変わりした」と捉えることもできるが、それでは劇が終わった瞬間、タビサが拍手もせず早々と立ち去った説明がつかないだろう。
そもそもタビサが史上最悪の批評を書こうとした理由は「リーガンのような映画人のせいで、他の素晴らしい演劇が上演される機会が失われる」ためだ。リーガンが実銃を使い入院したことで、リーガンの劇の公演は続けられないだろう。つまりタビサは、史上最悪の批評を書かずとも目的を達成したわけである。
勿論退院すれば再開するかもしれないが、次回以降実銃を使うわけにもいかない。つまり1回限りの手であり、再開後に「実銃を使い話題を呼んだが、演劇自体は見るに堪えない」等と史上最低の批評をすればよいのである。
また、タビサ以外の観客はスタンディングオベーションするほど劇に感動していた。そのため、観客の感動と余りにかけ離れた記事を書くにはリスクがあるだろう。タビサからしてみれば目的は達成できているため、危険を冒す必要もない。それ故に皮肉たっぷりの記事に留めたのではないだろうか。
リーガンが窓から飛び出した意味は?
リーガンが飛び降りたシーンは、様々な解釈ができると思うが、私は以下の通り。
ベッドに臥していたリーガンは、ジェイクと対照的に新聞記事に興味がない様子だった。高いプライドを捨てた彼にとって、タビサの評価は既に価値がないものだったのだろう。その後、サムが買ってきた花ライラックを嗅いで、「鼻が利かない」と言う。ライラックの花言葉は「プライド」であり、これもまたプライドを捨てたことを暗喩している。
リーガンがトイレに行くとバードマンが便座に座っている。バードマンは「お別れだ クソ野郎」とつぶやいた。バードマンはリーガンを惑わす幻覚である。散々「演劇なんかやめて大衆が求めているアクションヒーローに戻れ」と誘惑してきたが、リーガンが演劇で評価されたことを受けて、アクションヒーローに戻らせることを諦めたのだろう。
それまでのリーガンは、「自分は正当に評価されていない」という高いプライドを持ちながらも、今まで通りハリウッドスターとして大衆が求めるモノをやっていれば良いのでは?という二つの間で葛藤していた。しかし、この時点のリーガンは、そういった高いプライドを捨て、さらにバードマンの誘惑とも決別できた状態であることが、この病室のシーンで明らかにされている。
そんな葛藤から抜け出せた彼が、鳥が自由に飛んでいるのを目にして窓を乗り出し、にこやかに空へと飛んで行ったのだから、「今まで苦しんでいた葛藤から解放された、新しい自分に生まれ変わった」シーンなのではないか。
バードマン考察②花が意味すること
この映画には、3回ほど花が登場する。作中では主人公の心中を表現するのに一役買っていると思われるので、その点を解説する。
一つ目:サムがリーガンにバラの花を買ってくる
一つ目は映画冒頭、リーガンがサムに花を買ってきてもらうシーンだ。

「ハゴロモグサか香りの良い花を…」



「キムチ臭い花ばかりよ」



「その花でいい バラ以外なら…」



「付き人やめたい」
ここでリーガンが最初にリクエストした「ハゴロモグサ」のアメリカの花言葉は、「慰めの愛、誰かに自分の存在を知らせたいとき」である。自分の実力を認められたいリーガンの心境を表現しているのだろう。
最終的にリーガンは「(今まさに画面に映っている)その花でいい バラ以外なら」と最低限の注文をつける。しかしサムは「あなたの希望に沿う花はなかった」とメッセージを付けてバラを楽屋に置く。花屋にはバラ以外の花も多数陳列されていたため、明らかに当てつけでバラを買ってきたのだろう。それを見たリーガンは、超能力で花瓶を割る。
二つ目:ファンがリーガンにバラの花を贈る
二つ目は、物語後半、劇場にファンからリーガンへ届けられた大量のバラだ。それを見た元妻シルヴィアは「すごいわ バラだらけ バラは嫌いよね」と言う。
何故、リーガンは薔薇が嫌いなのか。これは大衆人気を嫌がり、その世界の実力者に認められたいリーガンの心中を表しているのではないか。
バラの花言葉は色や本数により様々だが、「愛情」を表現するものがほとんどである。思うに彼は、そういった既存のファンからの愛情が疎ましいのだろう。東洋人によるインタビューや、街で見つかったときの人々の反応、SNSでの感触を見るに、彼はとても人気で好意的に受け止められている。しかし、そのような大衆人気は彼が本当に欲しいものではない。彼が欲したものは、レイモンド・カーヴァーのような本物に評価されることなのだろう。
三つ目:サムがリーガンにライラックを贈る
物語終盤、入院しているリーガンにサムがライラックの花を贈る。
ライラックのアメリカの花言葉は「pride(誇り)」、「beauty(美)」だ。鼻が壊れてしまい匂いが分からないリーガンは、まさに鼻っ柱が折れて見た目が醜くなり、今まであったプライドが無くなったことを表現しているのだろう。
最後に
-
- ストーリー
- 3
-
- 身内ネタ
- 5
-
- 映像
- 5
-
- 演技
- 5
-
- テンポ
- 2
評価:
役者と批評家との関係性や、商業的映画と芸術的舞台との対立構造等、そういった業界と身近な人間であれば共感できるのだろうか、そういった場面が多い。
コメント